すしと映画が好き

食べログでも映画評論でもありません。ただの備忘録です。

好きなことを言語化する

書かないといけないとのことなので。一番は雑誌です。雑誌というと身バレしそうだから、また後日書くことにする。

映画

大きく路線変更されるほど、自分の人生に影響があったとは言い切れないが、今までの人生を振り返って所々で影響を受け、自分の考え方を変えさせられているように思う。

映画から私が受けた変化は、気持ちの切り替えという日常的な些細な変化と、知らない世界を疑似体験することで非日常的な変化の2つに分けられるだろうと思う。

日常的な変化については、辛いことがあったときは映画を観に行くと決めているので、ストレス発散という手段で受ける時の感情の変化だ。二時間ほど真っ暗な中で画面に向き合い、一つの物語の面白さに没頭すれば、頭が軽くなる。辛い感情に浸り続けることなく、冷静になって考えられるようになる。映画が存在していなかったことを想像すると、日常的に自分は、このように映画によって励まされているので、塵が積もって山となり大きな変化なのではないかと思う。

非日常的な感情の変化については、他の国の話や、自分は体験できないようなこともその主人公の表情や言葉、感情で疑似体験できることでの変化だ。

自分が観たい思う映画だけではなく、適当に空いている時間に映画館に行き、一番気になる作品をタイトルだけで選んで観る。その中から、たまに自分を振り返るきっかけになる作品が多くある。

例えば、「パッドマン」という作品ではインドの女性用のナプキン作りに奮闘する男性を描いた映画である。インドでの宗教と衛生面についてなんて知るよしもなかった。違う世界のシビアな内容を、インド映画独特のミュージカル調だから、楽しんでみることができた。

「その手に触れるまで」という作品ではイスラム教に没頭した若い男の子の行く末を描いた物語だ。暗く単調で、途中寝てしまったが、宗教を持たない自分がみたときの映画への感想と、この作品が作られた国で、信仰している人多くいる中での映画の上映意義やその人達が抱く感想とを考えると、かなり尖った作品なのではないかと考えたら面白かった。

「82年生まれ、キムジヨン」は自分がまだ実感がない女性のキャリア問題について描かれている。働き方改革とは無縁の前職の経験もあり、観た後はどうやってこれからキャリアを積んで行くのか考えさせられた。

自分が普段、興味や関心が全くないことに対して疑似体験し、考えさせられている点で今までの人生で大きく映画から影響を受けたように思う。

自分を少しづつ肯定する

親や付き合った人に言われたことは自分のコアの部分まで届く。

その言葉は、容易に体のコアの部分まで届き、流れて凝り固まったものを壊す。


親は褒めるような言葉を言ってくれなかったし、

(私が褒められるのが苦手だとかを小学校の頃に言った事があるからなのだろうか。記憶が曖昧で思い出せない。)

自己肯定感とやら全くもって持っておらず

ここ二年くらいになって持っていた方が生きやすいことに気づいた。

心無い、愛のない、傷つく言葉を相手の気持ちなんて考えずに容易にいう人がいる。言われても何食わない態度で接していたら、歯止めがない人がいる。言われる隙がある自分を責めて反省してを繰り返す。

一方で言われてもその言葉をさらっと捨てて違うことを考えられる人がいる。相手のせいにして、攻撃を完全に遮断し言葉から自分を守れる人がいる。

私もそういうように、安直な言葉で立ち止まりたくないし目から頭、首が痛くなりたくない。考えすぎて、もっと別に時間を使った方がいいことに時間を使いたい。

もっと楽しくて毎日が明るい色で囲まれている日々を送りたい。せっかくこの世に生きていて、生き続けていて、大変なことも乗り越えているのだから。友人と楽しいことだけを共有して美味しいものを食べて、楽しい感情だけに囲まれて生きたいと思うようになったからだ。

親や周りから、持つことに繋がらないのであれば

自分が、自分という存在を肯定し、存在そのままを自分で受け入れて、欠点だとか短所だとかを「そのままでいい」「あるがままでいい」と受け入れようと思った。

自分の嫌な部分を書き出し、改善できるところ・改善というよりも受け入れるところを考えた。自分を少しづつでも好きになりたくて。自分のことを自分で愛さなければ、心底好きになれる人と付き合ったとしても、なんでこの人は私のことが好きなのか一緒にいてくれているのかと思い不安になったから。会えない時に、信頼関係ができていない時に勝手に不安になるから。思いに鈍感で、言葉にして相手に伝えることもせずに。

学びたくない人で学んだ。人生で一番に好きだと思える人に会い、幸運にも付き合う事ができたのに。

こんな自分が嫌になった。嫌いになった。変わりたいと思った。

自分のことを心底愛する事が、好きな人のそばに自信を持って堂々といられるからだ。とのこと、よくいう言葉だけど、本当にそうだといまになって気づいた。

友人から自信を持った方がいいと言われても、しっかりと絶対に直すとまで思えなかったが、好きな人に言われると心のコアな部分まで届きその言葉が流れるように、凝り固まった自分を壊した。自分を愛せるように、時間がかかることだと思うが少しづつでも好きになりたい。

模索する

 考え”すぎる”ことと思考停止の狭間で 

   自分はどの位置にいたらいいのか。考えすぎる時間を自制して、取捨選択して進めばいいのだろう。

 考えすぎることは、免疫力を低下させて時に体調を悪くする。頭が痛くなるし、肩が痛くなるし、首がなんだか固まるし、肌が荒れる。食欲がわかなくなるし、睡眠も十分にとれない日もある。行き過ぎると、ストレスとやらに変化して体の病気につながる。このご時世、免疫力が何よりも大切なのに。

 片目が一ヶ月に1〜2回、3〜5分ほど見えなくなる病気?になって、一年がたつ。一過性黒内障やら統合失調症やら、いろんな病気がネットで見つかった。なんの病気か、原因を求めになんども病院や大学病院に行ったけれどどこも悪い場所が見つからず、思っていた以上に自分は健康体だった。

 一回自分の食生活・生活リズム・思考回路・全てを見直そうと思った。いろいろな病気から自分を守りながら、思考を続ける楽な立ち位置を見つけたい。自分の思考回路がきっと自分の薬になるはずだ。

 自分は、人と比較して考えすぎる性格だと思う。割と前のことを思い出して、相手の立場に立ってなんでこうなったのかを永遠と考える。(核にまで来た言葉に対して、だけだけれど) 自分の発した言葉を思い出して、相手から言われたことを思い出す。なんでそんな言葉を言われたのかをひたすらと考える。考えすぎて、夢に出てくる。また明くる日考える。立ち止まったまま、答えを探して本を読む、記事を探す、人の話を聞く。反省を繰り返して、答えが知りたくて。答えが見つからないまま、時が流れる。いくら考えても、その時には戻れないのに。

これが左目の原因なのではないか。この性格で、悩みまくった結果、ストレスを感じすぎ、それが血栓となっているのではないか。目が見えなくなることは想像していたよりも怖く、その恐怖心は何よりも打ち勝った。ならばもう少し、中間地点によった位置に行きたいのだ。

 考えすぎると自負する人を客観的にみても、それが別に駄目なことだとも思えない時もある。その人は、仕事やその他多くのことに繋がっているからそう思うだけなのか。そして側にああやって堂々構えて悩まない人がいるから、息抜きをなんだかんだしながらだから、病気にもならずに良い位置で保てていたのではないか。(一番好きなオードリーのこと、遠い位置にいる人だし断定して話せないけど)

ただ、自分と同じような考えすぎている友人には思えないときもあるからなあと。そして、この文章を10年後の自分が見直した時、この自分に対してもっと楽に生きろよと喝を入れるような気がする。

 自分にとってのもう少し楽な中間地点を見つたい。

 その大成した人は、その性格のおかげで、本を出版することにも繋がっているし、音声だけの仕事に繋がっているし。その場所で、光を浴びない人がわんさかいる中で売れ続けているのも、その結果なように思う。その人は、数々の仕事に、考えすぎる性格が生かせれている。純に、面白い。言われて、言葉を一回自分におとしこめるからこそ、そこから思考し、ほかの人よりも多くのことを学んで行った結果なのだろうかとも思う。考えすぎた結果、人から言われた言葉に立ち止まった結果、ほかの人よりも大成しているように思うからだ。樹齢は同じでも幹の太い木のようだ。

 考えすぎるからこそ、オリジナルの思考とオリジナルの言葉が生まれる。よくある言葉ではないその言葉は、その人の発する言葉は、回り道をせずなんの躊躇もせず自分の核の的まで届く。きっと他にも多くの人の助けになっていると思う。ノイズとやらをさっと優しく取り除いてくれる。自分もいつか、この考え方のおかげでこの人のように、誰かのそばに寄り添えるのだろうか。

 全てのことに悩まず考えず振り返らず肯定して生きたいが、一方でそれは、思考停止なのではないかとも思う。そうやって生きた結果、進んでいける道もあるとも思うけれど、同じ道で立ち止まって反省することは人よりも多くのことを学び、いつか何かを得られるのではないかとも思う。大器晩成のその人をみて、そう思う。

 中間地点を見つけることが難しい。

 一般人の私はこんな性格をやめて、楽に生きた方がいいようにも思う。こんなんじゃね、女としてどうなのだろうかとも思う。明るくて天真爛漫で、その場で満足して迷わずに進んでいける方へ行った人を見て、そしてそのことをはっきりと言われたあの日を思い出してそう思う。そうだよねと。 自分を客観視しても、彼の立場でも、そりゃそうだよねと思う。幸せになって欲しいしきっとそのままだと幸せな道を進んでいけるだろう。そして、それが彼の未来の道だったのだろう。

 そして早くに結婚して行く人、誰かに選ばれる人は皆そういう笑顔の時間が長い人のように思う。私だって温かく肯定して、寄り添って、受け入れて、沢山の毛布をかけながら進んで行きたい。大変だったね、辛かったね、大丈夫だよと、全てを肯定してあげたい。そして、明るく照らしてくれる人と自分も結婚したいとか思うと、そういう人と一緒に進むには自分が変わる以外ないとも思う。そして、離れた後に小さく書かれた thank you for your being という言葉を見つけて、もっと自分も自分を肯定したいと思った。そして自分の言葉の脆弱さを直して、相手にも暖かい毛布をかけたい。

 ただ自分がこういう思考回路だからこそ、こうやって悩めたからこそ、子供には生まれて来ただけでいい、無価値なんかじゃない、生まれることは本当にすごいことのだと伝えたい。それは大きな学びだ。そのままでいること、「being」という状態こそが価値があるということ。

 行き過ぎない程度で、狭間でさまよいながら生きていけば、ちょうどいい道を見つけて、そのスタート地点からまっすぐに歩ける時がくるのだろうか。

 自分が彼の背中を力強く押したことへの後悔と、進んでいる時間を羨み、私の時間は止まったままだけれど、いつか動く時が来るのだろう。

新卒で入った会社は失敗だったのか。

自分の思っていることを整理するために、

自分の好きなものを羅列したこのブログで、

一度羅列して、いつか纏めてみようと思った。


コロナで時間が有り余ってるなか、

今だからできることもあるはずだから。

 

『いまだから出来ることは。』

学生の頃はいつも頭のなかにあった言葉だ。

長期でどこかに旅行にいき、違う街にすんでみて、気になる会社でアルバイトをするくらいだったけど。

精一杯行動したつもりだ。

 

 

私はなかなか、人とあまりあわず家に強制的にいる感じは好きだ。

ゆっくり物事が動いてて、

本来のあるべき姿を思い出す余裕が

自分のなかで強制的に作られている感じ。


このご時世でも、知恵を使って動いている人もいる。

私の家の近くの寿司屋は、コロナが蔓延しているなかリニューアルオープンをし

街に人が出歩いてない頃、いつも人で賑わっていた。


会社を辞めた日、自分の誕生日に友達が家に来て私が逆にもてなした日、

だいぶ疲れた日に2度、寿司をテイクアウトした。


たしかに美味しかった。

 


この前みた演劇も、ブロック塀のように客席を仕切りでわけ、演者はマスクをあたかも衣装の一部のように様々な格好で演じていた。

パーテーションをスクリーンのように活用して。

 


新卒で入った会社をコロナが蔓延し始めたころ、自分の意思で約1年で辞めた。


「なんで辞めたの?」

会う人に必ず聞かれる。

辞めた人がいたら、必ず聞く定型文なんだなと。

失恋した人がいたら、別れた理由を毎回聞かれるし、

引っ越ししたら、家賃を聞くひとも必ずいるように。

 


逆に、話すまで待ってくれたり、聞かずに未来の明るい話だけのあたたかい人が居ると、

きっとこういう人が友達なのか、

真の思ってくれる人なのかと思う。

長く付き合ってきた友達はだいたいそんな感じだ。

 


あの頃を何度も思い出すと疲れるから、

適当に答えてしまうときもある。

言葉で向き合うことを放棄する。

自分も相手にその程度なのだ。

 


三島由紀夫が、映画のなかで

自殺した人のその理由は一言で言えないとかなんとか言っていた。

明確には覚えてないけど、そんなことを言っていた。


それとこれは、わけは違うけど、

なにかを辞めてしまうときには、

こちらも理由は沢山あって。

 

これから転職の場で沢山聞かれるだろうから

一言くらいで纏めたいが、まだ整理しきれていない。どのことを言うか決めきれていない。

 

世の中の転職の理由、みかけの妥当そうな言葉。

面接で突っ込まれても相手を納得させられるような

一言目の言葉。

私はなんて言おうか。

 

スキルアップしたかったから。

社風があわなかったから。

やりたい仕事があるから。

 

逆に辞めた人に聞きたい、

どういった理由でやめたのか

一言で実際言えるのだろうか。

 

実際やめるとき上司に話したことも、本心を長々と話す気はなかったから

社風が好きになれないとだけ言った。

 

かなり周りに探りを入れられ、本心を探ろうとしてくれたけど、会社の人には誰にも言わず相談せず辞めた。


単純な言葉にすれば、病気になりそうだったから。会社に行かないととわかっていても、体が動かなかったりでなんか危ないなと思ったから。


長く働く未来がみえなかったから。

プライベートまで口出ししてくる直属の上司の言葉全てが好きになれず、会社に染まり意思なき人間としての振る舞いようが

100年経っても自分には絶対になりたくないと思ったから。

こういう人間であれ。が自分で自分の人格を否定して、性格を捻じ曲げないとなれないものだったから。

 

お金の面でも、社風、どこにも働く意味を見出せなかったから。

 

聞いた側が嫌になるような、

こんなことが実際の思いだ。

こんなだと、次の場所選びに苦労しそうだから

みかけの妥当そうな言葉を探す。

 

働くことをお金を稼ぐことだと、それ以上に自分が会社の利益に貢献することだと割り切って考えたいけれど。

やりたいことがせっかくあるから、

もう少し自分に向き合ってみる。

 

次の職場が決まって、納得できれば

失敗も成功に変わるはず。

納得できない場でも、そこで経験した納得できなさは自分を見つめ直すきっかけになり、

きっと次につながるはず。

はずだから、とりあえず頑張ってみようと思う。