すしと映画が好き

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模索する

 考え”すぎる”ことと思考停止の狭間で 

   自分はどの位置にいたらいいのか。考えすぎる時間を自制して、取捨選択して進めばいいのだろう。

 考えすぎることは、免疫力を低下させて時に体調を悪くする。頭が痛くなるし、肩が痛くなるし、首がなんだか固まるし、肌が荒れる。食欲がわかなくなるし、睡眠も十分にとれない日もある。行き過ぎると、ストレスとやらに変化して体の病気につながる。このご時世、免疫力が何よりも大切なのに。

 片目が一ヶ月に1〜2回、3〜5分ほど見えなくなる病気?になって、一年がたつ。一過性黒内障やら統合失調症やら、いろんな病気がネットで見つかった。なんの病気か、原因を求めになんども病院や大学病院に行ったけれどどこも悪い場所が見つからず、思っていた以上に自分は健康体だった。

 一回自分の食生活・生活リズム・思考回路・全てを見直そうと思った。いろいろな病気から自分を守りながら、思考を続ける楽な立ち位置を見つけたい。自分の思考回路がきっと自分の薬になるはずだ。

 自分は、人と比較して考えすぎる性格だと思う。割と前のことを思い出して、相手の立場に立ってなんでこうなったのかを永遠と考える。(核にまで来た言葉に対して、だけだけれど) 自分の発した言葉を思い出して、相手から言われたことを思い出す。なんでそんな言葉を言われたのかをひたすらと考える。考えすぎて、夢に出てくる。また明くる日考える。立ち止まったまま、答えを探して本を読む、記事を探す、人の話を聞く。反省を繰り返して、答えが知りたくて。答えが見つからないまま、時が流れる。いくら考えても、その時には戻れないのに。

これが左目の原因なのではないか。この性格で、悩みまくった結果、ストレスを感じすぎ、それが血栓となっているのではないか。目が見えなくなることは想像していたよりも怖く、その恐怖心は何よりも打ち勝った。ならばもう少し、中間地点によった位置に行きたいのだ。

 考えすぎると自負する人を客観的にみても、それが別に駄目なことだとも思えない時もある。その人は、仕事やその他多くのことに繋がっているからそう思うだけなのか。そして側にああやって堂々構えて悩まない人がいるから、息抜きをなんだかんだしながらだから、病気にもならずに良い位置で保てていたのではないか。(一番好きなオードリーのこと、遠い位置にいる人だし断定して話せないけど)

ただ、自分と同じような考えすぎている友人には思えないときもあるからなあと。そして、この文章を10年後の自分が見直した時、この自分に対してもっと楽に生きろよと喝を入れるような気がする。

 自分にとってのもう少し楽な中間地点を見つたい。

 その大成した人は、その性格のおかげで、本を出版することにも繋がっているし、音声だけの仕事に繋がっているし。その場所で、光を浴びない人がわんさかいる中で売れ続けているのも、その結果なように思う。その人は、数々の仕事に、考えすぎる性格が生かせれている。純に、面白い。言われて、言葉を一回自分におとしこめるからこそ、そこから思考し、ほかの人よりも多くのことを学んで行った結果なのだろうかとも思う。考えすぎた結果、人から言われた言葉に立ち止まった結果、ほかの人よりも大成しているように思うからだ。樹齢は同じでも幹の太い木のようだ。

 考えすぎるからこそ、オリジナルの思考とオリジナルの言葉が生まれる。よくある言葉ではないその言葉は、その人の発する言葉は、回り道をせずなんの躊躇もせず自分の核の的まで届く。きっと他にも多くの人の助けになっていると思う。ノイズとやらをさっと優しく取り除いてくれる。自分もいつか、この考え方のおかげでこの人のように、誰かのそばに寄り添えるのだろうか。

 全てのことに悩まず考えず振り返らず肯定して生きたいが、一方でそれは、思考停止なのではないかとも思う。そうやって生きた結果、進んでいける道もあるとも思うけれど、同じ道で立ち止まって反省することは人よりも多くのことを学び、いつか何かを得られるのではないかとも思う。大器晩成のその人をみて、そう思う。

 中間地点を見つけることが難しい。

 一般人の私はこんな性格をやめて、楽に生きた方がいいようにも思う。こんなんじゃね、女としてどうなのだろうかとも思う。明るくて天真爛漫で、その場で満足して迷わずに進んでいける方へ行った人を見て、そしてそのことをはっきりと言われたあの日を思い出してそう思う。そうだよねと。 自分を客観視しても、彼の立場でも、そりゃそうだよねと思う。幸せになって欲しいしきっとそのままだと幸せな道を進んでいけるだろう。そして、それが彼の未来の道だったのだろう。

 そして早くに結婚して行く人、誰かに選ばれる人は皆そういう笑顔の時間が長い人のように思う。私だって温かく肯定して、寄り添って、受け入れて、沢山の毛布をかけながら進んで行きたい。大変だったね、辛かったね、大丈夫だよと、全てを肯定してあげたい。そして、明るく照らしてくれる人と自分も結婚したいとか思うと、そういう人と一緒に進むには自分が変わる以外ないとも思う。そして、離れた後に小さく書かれた thank you for your being という言葉を見つけて、もっと自分も自分を肯定したいと思った。そして自分の言葉の脆弱さを直して、相手にも暖かい毛布をかけたい。

 ただ自分がこういう思考回路だからこそ、こうやって悩めたからこそ、子供には生まれて来ただけでいい、無価値なんかじゃない、生まれることは本当にすごいことのだと伝えたい。それは大きな学びだ。そのままでいること、「being」という状態こそが価値があるということ。

 行き過ぎない程度で、狭間でさまよいながら生きていけば、ちょうどいい道を見つけて、そのスタート地点からまっすぐに歩ける時がくるのだろうか。

 自分が彼の背中を力強く押したことへの後悔と、進んでいる時間を羨み、私の時間は止まったままだけれど、いつか動く時が来るのだろう。